解説
日本の2024年ディープフェイク規制——何が変わり、何が残っているか
Maat Scan · 2026年7月7日
2024年2月、神戸市に住む58歳の女性が、フェイスブックで「堀江投資スクール」という 広告を目にしました。動画に映っていた講師は、実業家の堀江貴文氏そのものの声で、 元本保証をうたっていました。女性はLINEで「堀江」を名乗る人物と数週間やり取りを 重ねた末、指定された口座に5265万円を振り込みました。相手は実在しませんでした。 声は合成音声、映像は本物の堀江氏の映像素材から作られたもので、堀江氏本人はこの 女性の存在すら知りませんでした。1
被害者は彼女一人ではありません。警察庁の統計によると、2024年のSNS型投資・ ロマンス詐欺の認知件数は1万件を超え、被害総額は1270億円以上。前年比2.6倍の 急増です。2 増加分の多くは、実在の著名人の顔や声をAIで複製した 詐欺でした。堀江氏だけでなく、ユニクロ創業者の柳井正氏やZOZOの前澤友作氏も なりすまし広告の被害を受け、MetaのSNS上でほぼ野放しのまま配信されていました。 前澤氏をかたる詐欺の被害者30人は2024年10月、繰り返し削除要請を無視されたとして Metaを提訴し、4億3500万円の損害賠償を求めています。3
2024年は、日本のディープフェイク問題が机上の空論ではなくなった年でした。 そして、日本が初めて直接的な立法対応に踏み出した年でもあります。もっとも、 多くの人が想像していたような法律ではありませんでしたが。
ディープフェイク法ではなく、プラットフォーム法
2024年5月17日、国会は「特定電気通信による情報の流通によって発生する権利侵害等 への対処に関する法律」、通称・情報流通プラットフォーム対処法を可決しました。 旧プロバイダ責任制限法を改正したもので、2025年4月に施行されています。4
この法律に「ディープフェイク」という言葉は一度も出てきません。狙いは一定規模 以上の大手プラットフォーム事業者です。削除基準を明確にして公表すること、 削除申出への対応を定められた期間内に行うこと、苦情への対応状況を報告すること。 この改正の背景にあるのは、何年も高止まりしてきた権利侵害の相談件数であり、 その多くは合成メディアよりも通常の誹謗中傷によるものでした。5
詐欺の被害者にとって、これは名目以上に実務的な意味を持ちます。偽の堀江動画で 騙された女性には、ディープフェイクそのものを裁く刑罰規定は今もありません。 手に入るのは、少なくとも建前上は「いずれ」よりも早く削除要請に応じる義務を 負ったプラットフォームです。
法律ではなく、ガイドライン
その数週間前、2024年4月19日、経済産業省と総務省は「AI事業者ガイドライン」の 第1.0版を公表しました。それまで別々だった三つのAI原則をひとつにまとめ、 開発者・提供者・利用者それぞれに向けた指針としたものです。6
ガイドラインはAI提供者に対し、なりすましや偽情報を含む悪用リスクを検討し、 対策を組み込むよう求めています。ただし、従わなくても罰則はありません。これは 意図的な設計です。日本のAIガバナンスは、同じ月に成立したEUの拘束力あるAI法とは 対照的に、規制当局が国会審議を経ずに素早く更新できる非拘束的なソフトローで 動いています。裏を返せば、ガイドラインに従う価値がないと判断した事業者にも、 法的な結果は一切生じないということです。
今も罪にならないこと
実在の人物のディープフェイクを作ること自体は、日本では今も違法ではありません。 違法になるのはその後の行為です。刑法230条の名誉毀損、詐欺罪、業務妨害罪。 堀江氏になりすました犯人たちが訴追されたのは詐欺罪であり、彼の声を複製した こと自体ではありませんでした。
これは、非同意の性的ディープフェイクをめぐる日本の対応と同じ構造的な選択です。当サイトの肖像権に関する記事で詳しく 扱っていますが、法律が届くのは生成そのものではなく、その先にある被害です。
選挙ディープフェイクと、まだ存在しない法律
それより2年前、2023年後半には、岸田文雄首相の音声を合成した偽動画がSNSで拡散し、 プラットフォームが削除するまでに200万回以上再生されました。7それから2026年半ばの今に至るまで、AI生成された選挙運動コンテンツにその旨の 表示を義務付ける規定は、公職選挙法にまだ存在しません。
自民党のAI・Web3プロジェクトチームは2026年、公職選挙法と情報流通プラット フォーム対処法の両方について、選挙運動で使われるAI生成・加工画像や映像に表示 義務を課す改正案を提言しました。対象は候補者や政党の投稿に限らず、ネットに 投稿する全ての人に及び、表示のない合成コンテンツをプラットフォームが迅速に 削除できる法的根拠にもなります。現在の提言では罰則は設けられていません。8
これは、2023年の法改正で選挙前90日間のAI生成動画の制作・頒布そのものを禁止し、 違反者に最長7年の懲役または5000万ウォンの罰金を科す韓国と比べると、大きく 後れを取っています。日本の改正案は2026年半ば時点でまだ国会審議中です。9
今、できること
2024年に日本が手にした具体的な武器は二つ。プラットフォーム対処法と、 ソフトローのガイドラインです。どちらもディープフェイクを名指ししていません。 そして、この問題を世に知らしめた詐欺の波は収まっていません。SNS型投資・ ロマンス詐欺の認知件数は、2025年に入っても増え続けました。10
選挙の表示義務化法が成立し、ディープフェイクそのものを対象とする法律ができる まで、有効な防御策は2024年以前と変わりません。SNSで見覚えのある顔が投資を 勧めてきたら、本人が実際に管理している連絡手段で確認できるまでは信用しないこと。 著名人が写った広告を、その本人が承認済みだと思い込まないこと。そして、もし 騙されたとしても、事件を立件するのはディープフェイク法ではなく、今も詐欺罪です。
出典
- 関西テレビ(KTV), 「AIを使ったフェイク動画・音声で堀江貴文氏かたる投資勧誘, SNS投資被害で5260万円被害」, ktv.jp, 2024年4月15日。
- 警察庁, 「令和6年における特殊詐欺及びSNS型投資・ロマンス詐欺の認知・検挙状況等について」, npa.go.jp, 2025年。
- Marketing-Interactive, "Meta faces lawsuits in Japan over fake celebrity-endorsed investment ads," Marketing-Interactive, 2024年11月。
- 総務省, 「情報流通プラットフォーム対処法の概要」, soumu.go.jp, 2024年5月。
- 弁護士法人かける法律事務所, 「情報流通プラットフォーム対処法(改正プロバイダ責任制限法)Q&A」, kakeru-law.jp, 2024年。
- 経済産業省, 「『AI事業者ガイドライン(第1.0版)』を取りまとめました」, meti.go.jp, 2024年4月19日。
- 日経クロステック, 「『選挙イヤー』にディープフェイクが氾濫、本人認証を突破する懸念も浮上」, xtech.nikkei.com, 2024年。
- 自由民主党, 「AI生成コンテンツの表示義務化へ公選法・情プラ法改正案の成立を」, jimin.jp, 2026年。
- 早稲田大学RCLIP(張睿暎), 「各国が動く『ディープフェイク』規制」, rclip.jp, 2025年。
- 警察庁, 「令和7年における特殊詐欺及びSNS型投資・ロマンス詐欺の認知・検挙状況等について(暫定値)」, npa.go.jp, 2026年。
